令和6年度の調査研究
1 労働市場の活発化と法政策の課題
(主査:山川隆一 明治大学法学部教授)
(1) 最近の日本においては、「人手不足」感が強まっている。統計データを見ても、2023年の完全失業率は2.6パーセントという低水準にあり、同年の有効求人倍率は1.31倍に上昇している。このように、日本の現在の労働市場は、労働需要に対して労働供給が大きく制約されている状況にあり、その結果、労働市場の機能が活発化している。具体的には、これまでの日本ではあまり盛んではなかった転職による労働移動が活発になされるようになっている。また、労働移動に関わる人材ビジネスの活動も活発になり、テレビのCM等においても、人材ビジネスの広告を目にすることがごく日常的な状況になっている。このような労働市場の活発化は、労働市場の機能の強化・適正化やさらなる活用へのニーズをもたらすことになり、人材ビジネスの活動内容の多様化や情報技術の活用とあいまって、2022年の職業安定法改正など、一定の法政策的な対応がなされることになった。
以上のような労働市場の変化は、上記の法改正が示すような労働市場の機能の強化・適正化などの政策的対応を必要とするだけでなく、労働供給そのものの拡大に向けた政策的対応を要請することになる。すなわち、従来の日本型の雇用のもとで主流であった、企業の人事上の広い裁量に対応できる働き方が可能な労働者だけでなく、そうした伝統的な働き方について制約のある労働者をどう活用するか、また、より多くの労働者が就業可能な多様な働き方をどのようにして促進していくかが重要な政策的課題として現れることになる。たとえば、近年の労働法制等において重視されてきた、育児や介護等のニーズに対応しながら就労する人々の働く機会を増やすための施策の重要性は一層高まるものと予想されるところであり、また、より一般的に、多様な働き方を希望する労働者に適合的な人事制度ないし法制度の設計が望まれることになる。その他に、外国人労働者の適正かつ円滑な受入れのための施策や、障害者や高齢者がその能力を十分に発揮しつつ働くことのできる機会の拡大やそれに対する支援のための施策についても同様の政策的な含意を含むものとして位置づけられる。
さらに、多様な働き方の促進による労働力活用の機会の拡大という観点からすれば、伝統的な「労働者」としての働き方に加えて、いわゆるフリーランスとしての就業について、それが適切に行われるための施策を考えることも、労働市場の状況変化の中では一層重要な意味をもつことになる。加えて、限られた労働力を一層有効に活用し、より充実した職業生活の機会を拡大するという観点からは、スキルの高度化のための施策も視野に入れるべきものとなり、DX等の技術革新やビジネスモデルの変化に対応するためのリスキリングの促進がその例として挙げられる。
他方で、一般的には人手不足が続く経済状況のもとでも、個々の企業については経営状況が様々に変化することはありうることであり、企業の経営戦略上の判断により企業組織の変動が生じた場合などに、労働者の雇用危機が生じたり、労働条件の変化が生じたりすることも当然予想されることといえる。ただし、そうした問題への対応策を考える場合でも、労働市場の活発化を前提とすれば、外部労働市場を考慮した対応を視野に入れることも有益となるのであり、外部労働市場の活用も含めた労働者の生活への配慮といった法的対応の検討も重要性を帯びてくることになる。
以上の他、労働市場の活発化は、労働政策の実現手法にも影響を及ぼすものであり、従来個別労働関係法の中で考えられてきた政策が、労働市場法的な手法によって図られる例がみられるに至っている。例えば、最近導入された、男女間の賃金の差異を社会に公表することを事業主に求める制度などは、活発化している外部労働市場における求職者等の評判ないし職業選択を通じて、男女間賃金格差の改善を図るという機能を果たしうるものであり、ここでは、個別的労働関係法と労働市場法の交錯とでもいうべき現象が生じている。以上は、労働市場における構造変化が、個別的労働関係にかかわる政策の実現手法にも影響を及ぼしていることを示しているが、社会保障法や経済法など他の法領域における政策の実現についても、労働市場の変化がどのような影響をもたらすのかが、政策的にも重要な関心事項となるといえよう。
(2) 検討課題
以上のように、労働供給が制約されている状況下での労働市場の活発化という構造変化は、労働法、さらには関連する法領域にも様々な影響を及ぼし、新たな課題を生み出すものといえる。また、従来から検討されてきた政策課題であっても、労働市場の構造変化のもとで新たな意味や課題を与えられているものが存在することが予想される。しかし、労働市場の活発化は最近になって顕著になった現象であり、こうした観点からの法政策上の新たな課題の発見、あるいは現存する課題の新たな視点からの検討は、これまであまりなされてこなかったように見受けられる。今回の研究は、こうした問題意識から、労働市場の活発化という構造変化の中での法政策の課題を広い視点から検討しようとするものである。
もっとも、新たな課題や検討の視点は、空白状態から出発するものではなく、従来から検討されてきた課題への対応につき、変化する労働市場のもとでどのような問題が生じているか、また、どのような限界があるかなどの検討に通じて具体的に明らかになる場合が多いと考えられる。したがって本研究では、労働関係の様々な局面における法的規律のあり方、多様な労働者・就業者の雇用・就業機会の増進のあり方など、個別の政策上の論点を取り上げたうえ、上述の問題意識を踏まえた検討を行うという研究手法がとりあえずの出発点となり、それに加えて、労働法内部での各法領域の交錯、あるいは労働法や他分野の交錯などのように、新たな観点からの研究手法の検討を含みうるものである。また、いずれにおいても、以上のような新たな状況変化を取り扱う研究においては、日本の状況のみを検討するのでは十分でなく、他国においてどのような対応がなされているかという比較法的な検討も重要な役割を果たすことになる。
2 キャリア保障に向けた実効的な労働政策の研究
(主査:諏訪康雄 法政大学名誉教授)
(1)日本の雇用社会構造は、①急速な少子高齢化の進展、②テクノロジー変化の急激な進展、③グローバル化の変容等を受けて、大きな変革を迫られている。いわゆる終身雇用・年功制を特徴とする日本的雇用システムの綻びが目立ってきており、個人がその雇用保障を一企業ないし一企業グループでの雇用維持に頼れなくなってきた。企業側はこれまでの雇用管理の在り方を、また個人の側は組織や仕事への向き合い方を、それぞれ見直す動きを示すなか、キャリア展開を各個人がより主体的に行うことができる環境整備が企業、国等に求められている。
(2)「職業生活を通じて幸福を追求する権利=キャリア権」の保障を理念の域にとどめず、各種のより具体的な関連施策を整備し、企業任せのキャリア形成だけでない能力開発支援、キャリアの形成・キャリアの転換支援の重視を、新たな労働政策の柱として強化すべき時代となっている。
(3)こうした観点から、2019年度から2021年度において、(公財)労働問題リサーチセンターの直轄事業として「新労働政策研究会」を組織し、わが国の労働政策の中期的課題とキャリア保障のあり方を整理し、労働政策が取り組むべき中長期的課題とキャリア保障のあり方につき、2回にわたってとりまとめを行った。2022年度、2023年度は、(一社)ダイバーシティ就労支援機構が調査研究を受託し、2021年度までの研究を継続、発展させた。2022年度報告書では、これまでの議論状況のまとめとして、キャリア権を主軸とした中長期的視点から労働政策のあり方を整理した。2023年度研究報告書では、個人を念頭に置いた労働政策を進めるにあたって、どのような基本理念や背景事情を念頭に、議論を進めるべきかを整理した。また、「雇用社会のパラダイムシフトは起きつつあるか?」をテーマに、新労働政策研究会第1回公開セミナーを12月に開催した。
(4)2024年度研究においては、これまでの研究の集大成として、わが国の労働政策を、キャリア権を基軸に諸方面について見直し、雇用労働政策へのより具体的な反映をめざした提言をまとめるとともに、新労働政策研究会第2回公開セミナーの開催によりキャリア権の重要性の広報に力を入れる。